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こころ

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今週のお題「読書の夏」

 そろそろ読書感想文に手を付けないと・・・・・・なんて考えてる中高生も多いのではないでしょうか。
 今回は、夏目漱石の「こころ」を紹介します。「先生からの手紙」が国語の教科書に採用されており、また推薦図書にもなっていることからも、読んだことのある人も多いのではないかと思います。晩年の漱石の著におおいネガティブで人間の暗い部分に焦点を当てた作品になります。おそらく漱石自身がモデルとなっている「先生」と現代(明治時代)を生きる若者である「私」との対比が魅力的です。何をもってこの小説の主題とするかは意見が分かれるところではありますが、私は「幸福とは何か」「罪とは何か」という大きな問いに対して、「先生」と「私」という異なる時代を生きた人物の回答を提示するものに感じられます。



こころ (集英社文庫)

こころ (集英社文庫)



「先生」の「幸福」に対する疑念は次にような形で語り始められます。

「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」
 私は今前後の行掛かりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然いう事ができない。けれども先生の態度の真面目であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の中で疑ぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへ葬られてしまった。


「先生」の生きた幕末から明治にかけての世間として、先生の置かれている状況というのは幸福といって差し支えの無いものです。先生は大学を出ており、お互いに思い合える伴侶があり、今日を生きるだけの糧がある。すなわち、最も幸福に生まれた人間の一対であるはずなのだ。しかし、先生は自分の境遇を「幸福であるはず」と言って表面的には幸福であることを認めようとするのだが、言動の節々から対比的に幸福とは思っていない意思がにじんでいる。それは「先生」が自身に幸福を享受する権利を認めてないからであり、文中の節々で極端に低い自己評価を下している。たとえば次のようなところ。

実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼を捉とらえて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わからなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。

「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんです」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己とに充た現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
 私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。


 これらの先生の発言は、過去の先生の言動から導かれるもので、いわば先生が生きて得た「幸福とは何か」という問いに対する「回答」なのである。私には、これを通して、幸福は失われた、この時代にはもう存在しないものなのだと先生が告げているように感じられる。この回答を得るまでの紆余曲折が「先生と遺書」で語られている。教科書ではこの遺書部分からKと先生とお嬢さんのドラマチックな部分だけを抜き出していることがおおいから、実際の教訓としては意味半減といったところではなかろうか。

 続いて、「罪」に対しては次のような記述がある。

「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解わかっていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。

君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。


 最も幸福に近いはずの恋こそが罪悪である。しかも、善人や普通の人の中にこそ罪悪は潜んでいるのだという。これらも先生の経験から発せられる「回答」である。
 遺書の最後を先生は次のようにまとめ上げている。


同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正まさしく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易たやすくは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄っとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿たどっているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。

私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
 私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。

それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解わからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己を尽つくしたつもりです。


 終までKを自殺に至らしめた原因ははっきりしません。しかし、先生はKの自殺に自己の厭世を重ねていきます。やはり「幸福」は失われてしまったのだ、と。いくら「幸福」に見えたとしても、全ての人が避けられない「淋しさ」を抱えている。そのために「幸福」になりきることは出来ないのだ、と。そして、Kと先生が死ぬに至る原因であるこの淋しさというものは、誰に理解されるものでもないことを先生は断っています。時勢の推移から来る人間の相違であるとして。


 さて、一連の恋と罪と幸福と死をめぐる話の中から、読者は何を感じ取るのでしょうか。ある人は、全てが先生の妄執だと捉えるかも知れません。別の人は、先生の淋しさは時勢の推移などではなく、世の中に普遍の物だとするかも知れません。また、先生の淋しさを実感として得られない人もいるかも知れません。
 私は、年をとるごとにだんだん「先生」の考えに近づいていくのではないかと思います。高校時代に読んだことがある人も、今一度読み返してみてはどうでしょうか。きっと積み重ねた人生の分だけ新たな読み方が出来ると思います。

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