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その主張は対立意見を持つ人には通じない

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ちょっと調べものをしていると今話題のSEALDsのスピーチが引っかかりました。全く関係のない検索だったんですが。
よほどコンテンツとして需要があるのだろうと思い、じっくり読んでみたところ「なんだかなぁ」という感想しか持てなかったので、どうしてそう思ったのかを書き下してみようと思います。

あらかじめ断っておきますが、本記事はSEALDsおよび一連の安保法案騒動についての意見表明や批評ではありません。

まずは彼のスピーチとその書き下ろしをどうぞ。
【スピーチ全文掲載】「デモに参加すると就職に不利になると脅してくる人がいますが、僕たちがやってることは間違っていないし、否定されるべきではない」SEALDs KANSAI 津田研人さん | IWJ Independent Web Journal




 私はこの安保問題に関して、賛成側と反対側のそれぞれが相手方の意見を聞いていないように見えてなりません。「広く国民に議論が起こらなければならない」という割に、それぞれがそれぞれの思うことを主張するだけで全く議論になっていないように感じるのです。私が賛成か反対かはさておき、この話がかみ合っていない現実をなんとかしたいと思うところです。

 冒頭に述べた通り、ちょうど津田研人くんのスピーチ文を見る機会があったので、これを元に考えてみます。私の結論としては、「反論ヒエラルキーが低いから、何とも思えない」です。反論ヒエラルキーについては下の二つのリンクを読んでいただければ理解出来ると思います。d.hatena.ne.jp
How to Disagree

では、一つずつみていきます。

神戸大学大学院の津田研人です。今日は関西から来ました。いつもはSEALDs KANSAIの方でデモをやったり、街宣に参加しています。よろしくお願いします。今、僕は怒ってます。安保法制をめぐり、安倍政権とそれに関わる人たちがやってること、やってきたことに対して、僕は本当に今、怒ってます。

「怒っています」という意思表明がはじめに来ます。感情で意見しているため、彼の感情を共有できない聴衆=賛成派には全く届きません。議論は感情ではなく、論理に沿ってするべきです。

僕は小学生の時に沖縄戦のことを勉強したことで、戦争と平和に感心を持つようになりました。何で戦争は起きてしまうのだろう。どうしたら平和になるのか。そういうことを考えながら、今まで勉強を続けてきました。小学生の時に聞いた言葉が今でも記憶に残っています。それは『戦争は人間を人間でなくする』という言葉です。この言葉、僕はとても重い言葉だと思います。

次は、彼の体験・経験からくる主張です。スピーチという形式上、かっちりした論拠を挙げることはむずかしいので、自己の経験を論拠にするのは悪くないと思います。そして、スムーズに議論のとっかかりを導入できています。「重い言葉」という表現もいいですし、なかなかいい出だしだと感じます。

戦争では人間が人間を殺します。肌の色の違い、言語や宗教、民族、そういった些細な違いだけで、生物的には同じ人間がお互いを憎み、殺し合います。どんなに酷いことも平気で出来てしまいます。そこには負の感情しか存在しません。しかし、その死体は紛れも無く、私たち人間であって、戦争を始めることも、人を殺すことも、全て人間の手によって行われてきました。

 「些細な違いだけで〜殺し合います」のくだりはどうでしょう。「生物的に」という語がどういう定義なのか不明瞭ですが、人種が違えば遺伝生物学的には別の種とすべきなので、まず主張に無理があります。そこを妥協したとしても、民族等の差異が些細かどうかは人によって(それこそ民族によって)異なります。きっと、彼はそれらの差異は些細なものと捉えているのでしょうが、やはりここも、彼と同じ意見を持つ人にしか共感できない部分なので、安保賛成派には届きません。
 「負の感情しか存在しません」もとらえどころのない表現です。まず、負の感情が何を指しているのかわかりません。感情的な主張です。
 「しかし」以下の文は、どこの主張に対しての逆説なのでしょうか。私にはわかりません。しかし以下は事実の列挙があるだけです。続く主張に繋がっていく必要があります。


戦後に生まれてきた私たちは、まず、その事実を受け止めなければなりません。だからこそ、今、私たちがしなければいけないことは、二度と戦争が起きないために、平和を自分たちの手で守っていくことです。

 前段「しかし」以下の事実→事実の認定要求→「だからこそ」の流れは完璧です。惜しむらくは、賛成派も同じ論理を持っている事です。したがって、相手の意見を変えるだけの力がありません。

人間は一人ひとり、幸せになる権利を持っています。そして、それは、お互いがお互いを尊重することでもあります。それが、本来の人間の姿だと思います。しかし、戦争は、普通の人が普通に人を殺し、命を奪うことを当たり前にさせてしまいます。これがどんなに恐ろしいことか、戦争を知らない僕たちも想像することができます。

 「幸せになる権利」とはどこの誰が保証する権利でしょうか。人権宣言のことかとも思いましたが、人権宣言は「法の下の平等」を訴えるもので「幸せになる権利」が対象ではないようです。私が知らないだけかもしれないですが、論拠無しの主張です。
 「本来の人間の姿」に関しても、ホッブズが言うように闘争状態が自然だとする考えもありますので、これも感覚を共有している人にしか通じない主張です。戦争は究極の闘争状態であるので、闘争こそが自然と考えるならば、「普通の人が」以降も対立意見者には通じません。

だから、絶対に二度と戦争を起こしてはいけない。これが、多くの人の命を奪った過去の戦争から日本が学んだことであるはずです。日本が曲がりなりにも維持してきた平和主義は、そのような過去の戦争への痛烈な反省をもとに、人間自身が自らの手で作り上げてきた歴史の遺産に他なりません。

 「絶対に二度と戦争を起こしてはいけない」までに至る論理が上述のように同じ意見の人にしか通じないので、明らかに正しいことを言っているはずなのに、なんだか薄っペく聞こえてしまいます。
 「だから」→「これが」と二重で結論を述べると、二つの主張が混ざってしまうので、好ましくない。「これが」以降の主張もやはり、論拠がないので同じ感覚の人にしか通じない。

それにも関わらず、今、安倍首相は、再び日本を戦争できる国にしようとしています。安倍首相は自衛隊が海外で戦争できるようになることで、日本が普通の国に、日本が国際社会で一人前になれると考えています。

 安保法案で「戦争できる国」になるのは(私の認識*1では)正しい。しかし、安倍首相が彼の言うとおりの考えを持っているという根拠は見つからずです。私が知らないだけかもしれませんが、人格攻撃に近い部分があるのではないでしょうか

でも、普通って何でしょうか。一人前って何なんでしょうか。他の国もやっているから日本もやらなければならない、そういうことでしょうか。でも、ここで確認しておきたいことは、他の国がやっていることは正しいことではなく、間違っていることだということです。戦争では絶対に人が死にます。一人でも、人の命が奪われます。これは、どんな理由があっても絶対に肯定することはできません。

 完全に「同じ意見の人」にしか通じない主張です。よって立つところが違えば「普通」も「正しい」も違うのですから。尊厳死問題で対立があるように、人の生き死にだって、様々な考えの人がいます。


ましてや集団的自衛権の名のもとに行われた戦争はすべて、自衛のための戦争なんかではなく、恣意的な目的の為に行われた違法な戦争でした。ベトナム戦争だって、アフガニスタン戦争だって、イラク戦争だって、自衛の名のもとに多くの人の命が奪われました。

 「自衛戦争」とは何かは難しい問題です。何も銃で撃ち合うだけが戦争じゃない。経済的に締め上げていくのだって十分に国の存続を危うくさせる行為なのですから。「恣意的な目的」が誰のどのような意図だったのか明確にしないとやはり、意見の異なる人には聞いて貰えません

他の国もやってるから自分もやる、そんな馬鹿な考え方がありますか。間違っていることは間違っているんです。他の国がやっているからと思考停止するのではなく、間違っていることに対しては、断固として間違っていると、主張していく勇気が、本当に平和を作っていく上で必要とされていることではないのでしょうか。僕はそう思います。

 完全に正しくて、完全に誤りな主張です。ここに至るまでの論理が理路整然としていればトドメになる名文なのですが、上述のとおり、独りよがりな論理で導かれたこの結論では、「仲間」には感動的でも「相手」には何ももたらさないこと必至です。

安倍首相は今、『美しい国、日本を取り戻す』というスローガンのもとに政治をやっています。でも、誰から日本を取り戻すんですか?何を取り戻すんですか?僕は全然分からないです。

 いきなりスローガン否定が始まります。さっきの文で一つ目の主張にキリがついたので、次の意見が始まると予測しながら聞きます。

政治の主体は私たち一般市民であって、安倍首相ではないんです。だから、多くの市民の反対の声を無視して、あなたが取り戻そうとしているものは、私たちが望んでいるものではないんです。あなたは今、私たち市民から権利を奪おうとしているのです。それが『日本を、取り戻す』というスローガンの正体です。憲法を守らない、言論弾圧をする、野次を飛ばす。そして何より、僕たち市民の声を聞こうとしないあなたの行動は美しいのですか?そんなもの僕は望んでません。今、必要なのは、僕たち市民が民主主義の力で、安倍政権から日本を取り戻すことです。

 感情が入りすぎていて追いつけません。まず、政治の主体は政治家です。市民(国民のことだと思いますが)が持っているのは主権です。主権でもって信任された政治家が主体となって政治をするのが間接民主制の基本のはずです。「多くの市民の反対の声を無視して」は論拠が弱い。たしかにデモなどが盛んに行われているので、少なくない数の反対派がいるのは間違いないですが、「市民の声=民意」は選挙によってのみ決定されるべきものでしょう。あるいは国民の数割程度の規模で反対署名やデモがなければ、「多くの声」とは言い切れません。もちろん、少数意見であったとしても無視することは許されざる行為です。
 主張の後半で「私達」「僕たち」といった語と「市民」が混同されています。自分たちの意見が「市民」全部の意見であるかのような主張ですので、論理性に欠きますし、議論の相手には通じません。安保法案に対する意見表明だったはずが、最後には政権批判になってしまっています。主張の一貫性が乏しく、私にはどこが重要だったのかわかりませんでした。

最後にひとつ言いたいことがあります。デモに参加すると就職できないとか、不利になるとか、そういうことを言って脅してくる人がいます。でも、少なくとも僕たちがやってることは間違っていないし、否定されるべきではないことだと思います。僕たちの活動をちゃんと見てください。知ってください。何も知らないのに、デモは危険というステレオタイプで見るのは、もうやめにしませんか。僕は安保法制を廃案にするために、そして安倍政権をやめさせるために、これからも自分の意思を表明していきます。2015年7月31日、私は安保法制に反対します

 まぁ、彼に限ったことではないのですが、議論相手の意見を踏まえて反論をしなければ、受け入れられることも議論が深まることもありません。相手の意見を否定するのは整然とした論理と明確な論拠をもって行われるべきです。当然、デモを否定する人や彼のいう「脅し」をする人も感情的で論理のない主張をしているのでしょう。


私は、若い世代が政治に興味をもってこのような声を上げるのはとてもいいことだと思っています。しかし、その主張の折々が論拠のないものであったり、感情にまかせたものであったりするのが残念でなりません。今回は津田研人くんのスピーチを題材にしたので、私が安保賛成派のように見えるかもしれません。実際のところ、私自身はまだ賛成とも反対とも意見を纏め切れていません。というのも、このように論理のない主張ばかりが賛成派・反対派ともにあふれかえっており、まともに議論をすることができないからです。
この記事が活発な活動をされている諸氏にとどき、両派とも整然とした主張にあふれることを願うばかりです。

*1:安保法案は全部読みました

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